故高橋邦芳の経歴を簡単に紹介します。なお、写真の転載等は禁止です。
大正13年(1924)3月19日、父・專一、母・ヱシの次男として生まれます。長男はすでに夭逝していました。
昭和5年(1930)、六郷町立六郷東根小学校入学後、6年次に六郷町立六郷小学校へ転校し、秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)へと進みます。横手中学時代は、数学が得意で、卒業時の成績は学年6番でした。横手中学卒業後、岩手医学専門学校(現在の岩手医科大学)に入ります。岩手医専在学時、成績は学年1位で総代を務めました。
大戦末期の昭和19年(1944)、岩手医専を卒業して医師登録し、陸軍軍医少尉(正八位)に任官します。応召時、北支(中国北部)配属を希望しましたが、南方への配属命令を受けます。ところが、マッカーサーが進攻してきたため、南方配属ができなくなり、台湾憲兵隊に配属されることとなりました。台湾は迫り来る米軍の攻撃に備えていましたが、米軍が台湾ではなく沖縄へと上陸したため、そのまま終戦を迎えます。終戦時の階級は陸軍軍医中尉(従七位)でした。
この台湾時代に病気となり、小腸を摘出、医師からは「あと1年か半年しか生きられない」と宣告されます。(結果的には87歳まで生きることができました。)
昭和21年(1946)、長崎港に復員しました。
昭和21年(1946)10月、秋田県より診療所開設の許可を得て、自宅で橋(邦)医院を開業、終戦後でお金も物もなく、前途多難な開業でした。他に医師のいない地域で開業し、自転車・バイクなどで山間部にも往診しました。
帰郷後は早くから教育の振興にも取り組み、六郷町教育委員・六郷東根小学校PTA会長・六郷中学校PTA会長などを歴任しました。
また、六郷町議会議員を2期務め、@学友館建設、A町営住宅建設、B教育次長設置に尽力しました。
こうした活動から、平成16年(2004)10月、地域の教育文化振興の功績によって、六郷町功労者として表彰されました。
昭和二十一年五月台灣軍々醫戰病療養のまゝ長崎港に上陸しました。金も物もなく正に徒手空拳(くうけん)無謀な開業を郷里でしました。顧みて皆様に多大の御迷惑をかけ赤面の至りです。
昭和二十二年頃醫師会に入会し、当時は大曲仙北一緒で会長は牛込米治郎氏でした。その後大曲市と仙北醫師会に分れて郡醫師会が発足し、初代会長は小松成隆氏でした。その後栗林信一郎氏、伊藤隆造氏、佐藤祐一氏、栗林明弘氏、滑川五郎氏と、現在に至り今度時の流れで大曲市と合流し昔日の姿に戻る事になり感無量です。約六十年前より醫師数も倍増かと推察され御同慶の至りです。
次に私の現在迄の人生行路に於て所謂偉い人に遇(あ)った事を記します。昭和三十年代秋田國体の節昭和天皇皇后の行幸啓(六郷自転車競技場貴賓席拜顔)は別格として、終戰直前岩手醫專講堂に於て多田(ただ)駿(はやお)陸軍大將の講演あり、準戰地台灣憲兵隊に配属(はいぞく)命令を受けて、現地台灣憲兵司令官上砂(かみさご)陸軍少將、酒井憲兵中佐、更に人見(ひとみ)十二師団長中將の謦咳(けいがい)に接し高雄港(たかおこう)にては中國戰車師団長岩仲(いわなか)中將の下問(かもん)あり、復員後郷里にて熊谷用藏軍醫少將に邂逅(かいこう)し鎮守(ちんじゅ)の宮司開業醫の傍ら町の教育委員として知遇を受け名門熊野神社として子孫繁栄して居ります。
文官としては三田定則学長(台北帝國大學総長)東北薬科大高柳学長、篠田糺(ただし)学長の講演接見も思ひ出であり過分の幸福(しあはせ)でした。
今や老境傘壽に入り、人生夢幻(まぼろし)と知りつゝも、社会、家族、郷里、國、大衆に依り生かされておるに感佩(かんぱい)し、愈々謝恩、神佛の庇護(ひご)を念じつゝ乱丁落丁多々あるを侘(わ)び擱筆(かくひつ)します。