釈文忠魂碑 |
忠魂碑(ちゅうこんひ)とは、戦死者などの慰霊・顕彰のために建立された碑のことです。日露戦争後、盛んに建立されるようになりました。この忠魂碑も「明治三十七八年戦役」とあって、日露戦争に関するものだと分かります。裏面には戦死者・病没者だけでなく、従軍者も記されており、戦死者の慰霊のみならず、従軍記念碑としての意味もあるようです。
場所は畠久神社(はたきゅうじんじゃ)の前です。
※畠久神社…六郷町初代町長畠山久左衛門を祀る神社。
■場所:秋田県仙北郡美郷町六郷東根字妻の神(さいのかみ)
この忠魂碑で目を見張る部分は碑銘です。この碑銘「忠魂碑」は、伊藤 明瑞(いとう めいずい)という書家によって書かれています。伊藤明瑞は、わずか5歳にして明治天皇の御前で腕前を披露した天才書家です。近年まで名前が埋もれてしまっていましたが、最近はギャラリーが開設されるなど、再び注目されるようになってきました。碑文に署名はありませんが、次の画像によって、これが伊藤明瑞の筆になるものだということが分かります。これは碑文に名前のある高橋専一の斡旋によるものです。
伊藤明瑞ギャラリーの開設者・竹林史博氏によると、忠魂碑を大書した例は珍しく、立派な字で、入魂の作品のようだとのことです。また、この碑が建立された大正元年から伊藤明瑞は中国に旅行しており、碑文が書かれたのは、それより早い時期とのご教示をいただきました。
■伊藤明瑞の一生
明治22年(1889)2月28日 | 和歌山県に生まれる。本名:宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 |
明治27年(1894)3月 | 王羲之流奥義免許皆伝。 |
明治28年(1895)2月13日 | 広島大本営において明治天皇の御前で揮毫。日本明瑞の名を与えられ、土方久元宮内大臣から印を賜る。右の画像に使われている印がそれで、大切な書にはこれを使用した。 |
明治35年(1902)頃 | 明石に居住。 |
明治36年(1903) | 伊藤博文の書生となる。これ以後「伊藤明瑞」の号を使うようになる。 |
全国各地をまわり筆法を披露する。 | |
昭和23年(1948)11月23日 | 兵庫県明石市の自宅で死去。 |
○河井高明『書家 伊藤明瑞』による。
【参考図書】
○『国史大辞典』・『日本大百科全書』・『日本国語大辞典』・『日本人名大辞典』・『法律用語辞典』
【文献】
○河井高明『書家 伊藤明瑞』(竹林史博復刻、2011、原版1972)
竹林史博氏より多くの資料・ご教示をいただきました。記してお礼申し上げます。